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中尾亜由美プロフィール




中尾亜由美です。

現役の服作家。衣更月(きさらぎ)と言うブランド名で活動中。

18年、神が宿ると言われている天然素材リネンで服を製作販売。

18年間培ってきた心持ち、ノウハウ、ビジネスマインドを盛り込んだセミナーを開催。

コンサルティングもやっています。

スピリチュアルヒーラーとしての顔もあわせ持つ。
ヒーラーとしての性質なのか、素材を活かしてより良い状態に出来る強みがある。
売れる人を見ると、映像として未来が見えてきます。
乱れたリズムを整えるのも得意。

プライベートでは、夫、23歳と20歳の男の子の母でもある。
息子や、旦那様の面白ネタは、facebookでお洋服より人気だったりします。
趣味は、スキー、ヨガ。

【出版】
2016年2月26日初版本出版。8月現在、5刷目

2017年2月2冊目出版。

【本格的に活動をはじめた2009年からの実績】

・展示会(鳥取、神奈川、千葉/合計17回)
・講習会・小中幼稚園PTA講習会(合計12回満席)
・2012年ファッションショー開催
・テレビ出演・Ustream出演
・展示会の新聞取材掲載
・販売記事を出して2日目に20,000円の服が売れはじめる。
・延べ、1000着以上販売
・コサージュ200個・モテシュシュ100個販売
・初のランチ会が2時間で満席
・ヒーリングツアー定員オーバー開催
・トリプルセミナー1週間で100名満席→140名満席
・セミナー参加人数延べ1000名以上(名古屋、三重、静岡、東京、北海道、高知、香川、京都、福岡招致、沖縄)
・Panasonic・商工会議所で講座
・年に一回販売するオルゴナイト(39個)が4分で完売
・なぜか、スキー雑誌2誌に掲載される


ここからは、中尾の生い立ちです。

よかったら、お付き合いください。


夢はキャラクターデザイナー




2月5日雪の日、長女として、母の実家がある島根県で産まれる。



寒いのに生まれたての私を窓際に置き、チアノーゼが出て、生後まもなく死にかける。

写真は笑ってるけど・・・


数ヶ月後、大阪の自宅に戻ります。

コリーを飼っていて、おにぎりを持っては、近くのレンゲ畑でピクニックをしてくれていました。



子供の頃から、お絵かきが大好きで、休日にはかならず絵を描いていました。

体が弱く、自宅にいることが多かったんです。

縁側に私専用の机、絵の具と、画用紙を用意してくれていました。

そんなに好きならと、有名な画家のお絵かき教室に私を入れた母。


お教室では、キチンと枠内描くことを教えられました。

母は、あなたの伸び伸びさがなくなったと、後々後悔するのです。

キャラクターを考えるのも好きだったので、
サンリオのキャラクターデザイナーが夢でした。(キキララの時代です)


お稽古事は、絵だけでなく、そろばん、公文、ピアノ、水泳、習字。

特に苦痛と思うことなく過ごします。

その間に、難病にもかかり、長いいじめられっ子時代でもありました。


母は、体にいいものをと、レトルト食品はほとんど食べたことがありません。

お菓子もパンも手作りでした。

お誕生日、クリスマスなどは、盛大にしてくれました。



家には、ミシン部屋があり、いつもミシンの音がしていました。

母は、子供ブランドの縫い子さんで、縫い子さんの見本も縫う器用な人でした。
レース編みを大手百貨店に降ろしたりもしていたそうです。

私の服はほとんど手作り。

このグリーンの服は、弟とお揃いの母の手作り。



小学校の頃、母の側で、りかちゃん人形のお洋服を作ったりしていました。

その時に「人のカラダって立体なんだ」と、気づくのです。

でもまさか、お洋服の仕事をするようになるなんて、想像もしなかった。。


担任からもイジメにあう




今から思えば、幸せな子供時代でした。

でも、母の体罰や言葉の暴力、小学校でのイジメにひとりで耐えていた時代でもあります。


幼稚園で、難病にかかり入退院を繰り返します。
母は、心配のあまり宗教にハマったり、
私が、コンと咳をすれば、すぐに薬を飲ませられたので、
薬漬けでした。


学校の先生も面倒な生徒と思ったのでしょう。
クラス中からのイジメ、担任からもイジメられました。


イジメられているなんて、親に言えないんですよね。
子供は、こんな子になってゴメンね…と思うんです。


不登校にならずに行けたのは、
『こんな人たちに自分の人生を無茶苦茶にされたくない』
と冷めた子供だったことが幸いしました。


中学、高校と、馴染めず一人でいることが多くなりました。
すっかり笑わなくなっていました。


絵で食ってけるか!




飽き性の私も、絵と手芸はずっと好きでした。

中学の卒業式。クラスメイトと担任の先生と。


いつもマーガレットの漫画をまねて絵を描いていました。
友達と遊ぶより、家でひとりが多かったので、
ずっと絵を描いていました。

実家には、描いた絵がダンボールにいっぱいあります。



中二の頃に、自分は役に立たない人間と絶望し、
自殺を考えます。

でも、死ねなかったんですよね。


高校時代も冷めていて相変わらずいじめられていましたが、カップルの似顔絵が評判になり、

描いて欲しいと行列が出来るように。

絵やポスターを描く時は、必ず私に依頼があり、絵も学校にも必ず貼りだされていました。

私の心のより所は、絵と手芸だけでした。


とりあえず、何かを作り上げることが好きでした。


なので、普通の大学に行って、平凡な生活なんて、考えられませんでした。

美術の学校に行かなければ、私の人生終わったも同然!とまで思うように。


自分を活かせる仕事ってなんだろうって考えたら、絵しかなかったのです。


「女が絵で食ってけるか!」と言う父に、土下座をして、美術の学校への進学を許してもらったのです。



広告代理店で憧れのデザイナーに、でも・・




美術の学校は、楽しくて仕方がありませんでした。
絵が自由に描ける。


絵を習うと思う人は多いかと思いますが、
絵は教えてもらえないんですよ。

センスと画力がないと、置いていかれるだけ。
自分で磨くしかないんです。

美術の学校は、いい成績で卒業しました。

賞もたくさんいただきました。


はじめて作った卒業謝恩会の洋服。




その後、世の中に出たら、学校の成績や賞など、全く意味のないことだと思い知るのです。


就職は学校に一切頼りませんでした。

自分で調べて、1日何軒も面接のはしごをしました。

慣れないヒールに、靴ずれだらけ。

経験者か、専門学校卒しか取らない業界でしたので、ことごとく落ちる。


そんな中、ミキハウスなどの広告も扱う、ちょっと業界では名の知れた会社に就職が決まったのです。

そこは、新卒は絶対取らないと聞きました。


でも、60人応募がきて、一人受かったんです。(私は新卒だけど、途中採用の募集でした)


不思議。どうして、受かったのか。


会社にはアポなし飛び込みで伺いました(怖いもの知らずでしたから)


その時、偶然にも社長さんが、会社に戻ってこられて面接をしてくださったのです。(これも引き寄せ?)


で、後日「私事で、お時間を頂きまして、ありがとうございました・・・」と、お礼とおわびのお手紙を書いたのです。


それに驚かれたそうで、「人としていい」と、採用となったそうです(笑)


母のしつけのお陰です。人生わかんないもんです。


晴れて、グラフィックデザイナーとなりました。


広告会社は、それはそれはすごく華やかで、楽しい毎日でした。

憧れの雑誌オリーブに出ているモデルさんに逢えたり。
(会社では、オリーブ娘って呼ばれていました)


デザイナーの頃、業界の人たちとウィンドサーフィンへ行ったり(真ん中の黒い服が私)


かなり、活躍されてる方ばかりでした。
この頃から、人のご縁に恵まれています。

仕事では、会社案内を丸々任されたり(なんと、今大企業に成長しています)

ブランドのタグのデザイン、商品のスタイリング、高級子供服の広告。
靴下屋さんの足モデルもやりました。


おしゃれな広告が、もてはやされてる時代でしたので、広告会社は強かったんですね。

まあ、バブルの時代ですよね。

営業マンも、スーツじゃないです。

綿パンに、ラフなシャツ、肩にはピンクのセーター。

石田純一だらけです。


失敗もしましたが、絶対に上のデザイナーが守ってくれました。

いい方ばっかりでした。


仕事は、楽しくて、笑い声もたえない仕事場でした。

人には、恵まれていました。


・・・・・でもね、超~過酷な労働だったのです。


休みなし、毎日終電。

疲れきって、お風呂で寝て、おぼれかけたんです。

母が気が付かなかったら、死んでました(よく死にかけるな~わたし)

父は、激怒。

年頃の女の子に、あまりにも過酷と、父に「辞めなさい」と言われました。


張り詰めていたキモチは崩れ、
夢の仕事に就けてたはずなのに、
なぜがホッとしたのです。



お金のかかる美術の学校に、反対を押し切って入ったのに。

やめられない、何があっても!と思っていましたから。



実はね、死ぬほど働いて、お給料が、月7万だったんです。

新卒で、能力がないからって。

でもね、一人前に仕事は任されていたんです。

当時のデザイナーは過酷で、過労死はよくあったんです。


父の言葉で、そっこー辞めました(笑)


この会社は、私が辞めたのをキッカケに分裂しました。
私の人生の中で楽しく華やかで、人間関係や人としてのあり方など、一番学んだところでした。


結婚まで悔いなく色んなことをしてやる!




グラフィックデザイナーを辞め、

学生時代アルバイトをしていた百貨店のお花屋さんに就職しました。

なにか作ることが好きなので、デザインが平面から立体になっただけで、なんら変わりなく楽しく仕事しました。

フラワー装飾技能士と言う、国家資格も取った。


その間に様々なバイトをしました。


・モデル(ブライダルショー、足モデルなど)



・合コンのサクラ(参加費無料で食べ放題。しかもサクラなのにカップルになるって、オチ)

・高級クラブのホステス(バイト代よかった!!高級お寿司も食べさせてもらった!)


ママに気に入られて、働かない?って、言われましたが、本当に気の利かない私には無理です。

ココで、「銀座の恋の物語」を散々おじ様たちに歌わされ、覚えました。



バブルも楽しんだ。



ほぼ、毎日仕事帰りにディスコへ。


左の彼女は、プロのダンサーになっちゃった。

有名歌手のコンサートでバックダンサーも勤めました。DVDにも登場しています。


「あゆもダンスしない?」って、誘われましたが、わたしは他にしたいことがたくさんあったから。


フラワーコーディネーターとなった私は、引き抜きで2度職場を変わり、

テレビ局のバラエティー番組のお花を生けたり、CMのお花でカンヌで銀賞を取られたり、

高級クラブの活け込みなどをしている先生の元で働くことのなったのです。


北新地の高級クラブで、自分が生けた花と一緒に。
これ、ボケの枝です。トゲだらけなので、腕は血だらけになります。

何店舗か、任されていました。




師匠は、資格など一切持っていない人でした。

「資格なんて、いらないのよ」と。

フラワーコーディネーターが、まだ全く仕事としてなかった時代に、さきがけで始めた方です。

考え方に刺激を受けた方です。

仕事は一見華やかですが、完全な裏方。

きれいな格好なんて出来ませんでした。

手も花で汚れたら取れないし、膝をつくのでパンツはドロドロ。


7年間はさみを握り、手は限界でした。

ひどい腱鞘炎と、顔が腫れるくらいの花粉症に。


花屋もちょっと仕事が減ってきてる時期でした。


いい時かな~と、また転職を考えました。



仕事は一つじゃない




グラフィックデザイナーをやめ、花屋も辞めました。


この仕事で一生。なんて思えないわたし。


いいのか悪いのか(笑)、とりあえず執着しないので、サッと次に気持ちを切り替えられます。

仕事どうしようかな~と日々探していました。

ある日、新聞にちっちゃい募集記事を見つけたんです。


それが、大阪市立科学館のコンパニオン。

その時、27歳。

年齢制限ギリギリ。


受かったら、おもしろいな~って、気軽な感じで、履歴書を送ったら、1次が受かり面接の案内がきました。


全く面接の準備もせず挑みましたが、落ちてもいいやって感覚でしたので、気楽でした。


2次、3次と面接はありました。


まさかの合格!!


60倍の難関を突破。(あれ?60って数字に縁があるのかな?)


人生って、何があるか本当にわかんない。

なんでも気楽に、受けてみるのもいいのかも。


やった~~、きれいな格好がやっと出来る!!


衣装は、アシダジュンのオーダーです。




夏バージョン(眉毛は自眉です)




バブリ~が、残っている私(おしゃれが大好きでした)




コンパニオンは、一年毎の契約で、出来の悪い(接客が悪い、アナウンスが下手、ユニフォームの着こなしがだらしないなどなど、もろもろを採点されます)と、クビを言い渡されます。


本社の人が来て、ひとりひとり面談があります。


私は、この頃結婚が決まっていましたので、「辞めます」と、お伝えしました。

意外な答えが、「チーフになってほしかった」でした。


わがままな女子をまとめるなんて、む~~り~~!!


結婚決まっててよかった~と、本気で思ったのです。

コンパニオンの仕事は楽しかったので、もうちょっとやりたかったのですけどね。

もうそのころは、十分な経験したと、満足していました。

でも、結婚してからも、やっぱり色々やるんです。


結婚・出産




旦那様との出会いは、めずらしいお見合いでした。

私は、結婚と恋愛は違うと、別けて考えていました。


見合いといっても、おばさん同士が知り合いで、年頃も合うからいいんじゃない?って、軽いノリで逢った。


逢ってビックリ。


金色の後光がさしていたきらきら


この人だわ~と、キターーハート

ダーリンと出会って、はじめてスキーをしました。

旦那様と同じ趣味を持つっていいでしょ?



後々、めっちゃハマるんですね~。


このドレス、斉藤由貴さんがサスペンスドラマで着てたやつです。

母が、これがいいと言ったので(笑)




たくさんの経験を独身時代にしてきましたが、結婚してもやりたいことは結局尽きないのです。


基本、飽き性です。すぐに飽きますがやってみたい性分。


才能がないと思ったら、そっこー諦めます。だって、ムダな時間だから。

【あきらめない】は、自分をあきらめないってことです。

それは、見込みがまだあるかな?って、いうものだけです。


勝手な考えですが、見込みがあるものだけをがんばる方が、結果も出るから。


長男は、結婚して一年目に産まれましたが、寝る子だったので、公園へ遊びに連れて行くと、帰りは必ず爆睡でした。

※次男が産まれた時。



結婚してから、他にこんなこともしました。

・踊りの発表会の司会

・陸上の試合のコールガール

・キックボクシング

格闘家だった、岩みたいな弟に教えてもらっていました。

弟は元プロボクサーです。
これは、私のバンテージ。



このころ私、腹筋が割れていました^^


・ヨガ

数年前まで週一教室で教えていました。



・スキー

ワンシーズンに20日は行きます。
国際資格も一応持ってます。




手作り作家になったわたし




結婚してからは、子育てをがんばろ~と、思うわけですが。

長男が寝るので、暇で暇で、はじめたのが洋服作りです。


もしかして、服も作れるかも?と、手持ちのブラウスから、型紙を取って作ってみました。

子供が小さいと、買い物もゆっくり出来ないので、全身手作り服になっていったのです。

そんな時に、ある雑貨屋さんのオーナーさんに「お店に置いてみないか」と、声をかけていただきました。

2000年。作家.A.ROOM.として活動を始めました。

でも、そこでは大量盗難、作ったものを乱雑に扱われたり、そして突然の閉店。

早く作品持ってきてね。と言われた2週間後でした。

オーナーに物申せない自分に嫌気がさしました。

ネットショップもオファーを頂きましたが、
嫌がらせにあい、辞めました。
ことごとく来るお試し。


この頃に、同居もはじまり、ストレスはマックス。
同居が決まってからは、覚悟を決めていましたが、
なんと、長男が円形脱毛症に…


お母さんの気持ちが伝染。
愚痴も一言も言わなかったのに…


しばらくして、親戚などの暴言にもあい
精神的にも追い詰められ、
薬を買い込み、自殺を試みます。


この時に旦那さんが、『なんか、嫌な感じがして』と早めに帰宅。
薬を飲まずに済んだんです。


旦那さんは、私の命の恩人。


今や同居して20年近くになりますが、かわし上手になり
仲良くやってます。
バカになる事を決めてから、楽になりました(笑)


そんなこんなもありながら、自立を考えたんですね。


「もう誰にものっからない!」と決めて、HPを立ち上げ、ブログもはじめました。


自分が動けば、周りもそれに合わせて、流れがやってきます。

あれよあれよと、個展の話が。

こちらは、北堀江の「シャムア」さん。



そして、シャムアさんで偶然であった、鳥取のお店のオーナーさん。

出会って半年後、委託販売から、個展の依頼を受けました。



それからも、通っていた美容院のオーナーさんに「ファッションショーしましょうよ」と、言われて、

トントンと進んで、やっちゃった音符



楽しかった!



日ごろの感謝を込めて、数人の作家さんに声をかけて、
自宅ショップもしました。

たくさんの方に来ていただいて、私の服はほぼ完売。



その間に、流れ的にヒーラーにもなり(子供の頃から、見えちゃう人でした)

『パワースポットで本来の自分を取り戻しシンクロが当たり前になる鞍馬山ツアー』は、大人気に。

中尾のリーディングメッセージで、大変身を遂げる人が続々!

ありがたいことに、私もパワー頂いています。




ハンドメイド作家さんに向けてセミナーを活動14年目にして開始。
今の自分は、想像できなかったです。



息子は、2人。

次男20歳は、サッカーのアスリートで、大学までサッカーをやっていました。
今は、サッカーを辞め、人生に迷いに迷っています(笑)

オレオレタイプです。



長男23歳。

将来の夢は、アイアンマンかしら?

彼はこー見えて、中学校のリレーで過去何十年と破られなかった記録を破った、案外やる人。

筋肉だけど、癒し系。



勉強嫌いでしたが、現在は大手企業のアプリ開発をしています。

この仕事が楽しく出来ているのは、家族がいたから。


独身だったら、絶対にしていないです。

イベントに出たり、グループを組んだりせず、一人で活動してきました。

意地悪も、いやなこともい~っぱいあった。

でも、絶対諦めなかったし、人との出会いから沢山の幸せをいただきました。

活動をしていると、色々あります。


そこで、
出会った人。
教えてもらったことを忘れずに、
活動することが大事だと思います。

嫌なことばかりにスポットを当てないことを人生では学びました。
過去は、『お陰様で』に変換できます。
だって、その経験が今の自分を作っているから、
感謝しかないですね。


『愛と感謝』の気持ちをもって。


自分らしく生きるっていいよ。

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